混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

文章という乗り物(2)

リライト2019-2-28

きっかけは寺山修司のあの詩

前の投稿の「文章という乗り物」のなかで、言いっぱなしになっていた、「考えたくなかった」ことを考えてみる気になった。文章は乗り物なんだと書いたが、実はこれは私のオリジナルではない。

2019-01-26(土) 幸福論 寺山修司 Kindle 位置No.63

私の詩のなかには

いつも汽車が走っている

だが私はその汽車に乗ったことがない

それにしたって「乗ったことがない」である。文章を書く行為に対して抱く理想を、木っ端微塵にする破壊力があり、しかも本文中でそれの解決策を示しているわけでもなく、それでも表現者なのか!という怒り。それがこの投稿の通奏低音となっている。

怒りと共に口をついたのが文章という乗り物からでないと見えない景色というものがあるである。大詩人の作った詩想に、自分の言葉が紛れ込む。さてさて楯突いたものか同調したものか…

何を考えたくなかったのか

それは、文章が必ずしも自分が行きたい場所へ連れて行ってくれるとは限らないということである。そして、乗り降りさへ自由ではなく、戻ってこれなくなる可能性だってあるということだ。

考える花火

文章が乗り物なら言葉はガソリン

先ほど、文章を書くことの理想と書いた。文章に乗車するとはどういうことか?そこでこんな素描をこころみる。

文章という自動車がある。それに言葉というガソリンを提供し続けて自動車は走る。そのガソリンは己れの魂に由来する言葉。その言葉が、また行き先を決めていく。

この無限軌道のような文章と言葉のリレーは永遠に続くかのように思われる。しかし、こんな経験はないだろうか。 文章が、自分が着地したい場所へ近づくにつれて、言い知れぬ「嫌な気分」が沸いてくるということだ。

書けないことが不快とは限らない

文章がいきなり失速してしまったり、文字に起こしてみたら実に陳腐な内容だったということを言っているのではない。そこは甘んじて受け入れる箇所で寧ろものを書く醍醐味とも言える。

読みが浅くなれば書き、書けなければ読む

文章作法として、知ったかをせず、身の丈に合った言葉を選び、結論を急がないのなら、よほど見当違いな極北へは連れていかれない。(と思う)

書くことの態度だが、週末にブログの更新の為に文章を綴るとして、完成は目指さず、書いているうちに興味はあちこちをさまよい、また時々は読書に戻ってみたり、時々は家事を交える。で、一日を終える。「読みが浅くなれば書き、書けなければ読む」という態度で一日を終える。書けぬなら書けぬでこっちの方が気分が良いのはどういう訳だろう。

書きすぎることの害

ここで量の問題にも触れておく。

2019-01-26(土) 人生論ノート 三木清 青空文庫(Kindle) 位置No.822

ひとは書きながら、もしくは書くことによって思索することができる。しかし瞑想はさうでない。瞑想はいはば精神の休日である。そして精神には仕事と同様に閑暇が必要である。余りに多く書くことも全く書かぬことも共に精神にとって有害である。

瞑想境(一種のトランス状態)に陥ったり、精神にとって有害な存在になり得る程の書く量とはどんなものか?経験がないのでわからない。何事も程々にしておいた方がよい。

書き過ぎの害とは自分の思索の結果、これは自分の発見だとしたことに対する思い入れ、愛情の事だ。長ずれば教条主義と称される。

あたりまえ過ぎて面白くない話になってきて、寺山のあの詩は、書きすぎる事への戒めと言うことに文章はなってきて、収拾がつかなくなってきた。私もこの文章から降りてしまいたい。私も、と口をついたが、寺山は別に文章からは降りてないでしょう。こうして十何時間もこの事にかかずらってきて、乗ったことがないなんて うそぶくコトももはや叶わずである。