何だか気にかかること(悲観論)
本日も「探検の5原則」の話題である。今回は(4)なんだか気にかかることをである。
「何だか気にかかる」をいい気になって使い続けると…
俺様が気になってるんだからの暴走
私が本などから抜き書きしKJラベル化した事柄は、自意識過剰気味に「俺様が気になってるんだから」というのが唯一の理由である。興味がなくなってしまえば終わりである。おそらくはそのまま死蔵して日の目を見ることはない。
テーマも必要?
元々が己れの読書の免罪符でもあり、本から本への彷徨に筋を通してみたいという、どこに行くか分からない旅でもあったのだが、ここに来てテーマも必要なのではないかと感じる。
賞味期限切れ?
以前書くことにも賞味期限があるという話をしたが、突然、何の興味もなくなった理由も、最初に気になって本から抜き書きした理由同様、なんだかわからない。それ自体をKJ法で暴き出すというのもちょっと違う気がする。
何だか気になるも結構だが
あれもこれもじゃなくて、そろそろテーマを決めて読書傾向も吟味した方が良いのではないか?とも思うのだが… でも博士はそれでいいのだという もう、何に使うかわからんがキープしておけと言われる。後々収拾がつかなくなることがわかっているのに?川喜田博士の言われることは、時々難易度が高い。まあ、耳障りの良いことを書いて「思わず膝を打った」じゃあ、ただの自己啓発本だ。反発を感じる位が丁度よいのかもしれない。
「なんだか気になる」は、いつも物欲しげに物色を試みる
スタートダッシュは良いけれど、だんだんダメになっていく。要は全部過去の自分のことなのだ。自分探し?それは勘弁してほしい。今更自分にめぐり逢ってどうする。
このブログをなんとかしたい
自分の興味を主眼に置くのは、自分探しなんかじゃなく世界の中の日本にいて、そろそろ人生も後半で、それでそういう男が考えること、何に興味を持ってしまうのかを記録に残すことである。その時の自分の自意識なんかじゃなく、その周辺にある何かを移すスクリーンとなっていることが好ましい。そして、なんとかこれを残したい。書籍として残すのが理想だが、無理ならば、このブログを半永久的に残す方法を模索するだけだ。
ずいぶんと薄っぺらな悲観論
少し熱くなって「なんだか気になる」悲観論を書いてしまったようにも思うが最初にご著書でこの箇所を読んだときは(それは「発想法」が初出か)、大げさな話コペルニクス的転回だった。
KJ法は「積み重ねてない奴」向き?
気になることだけでいい?そんなんでいいんですか?仮説をたてては検証し、演繹したり帰納したりとかしなくていいんですか。(←やってない)という話の筈だったが、そういうものを全部すっ飛ばしても良い。専門知識も、理数的知見も必要ない代わりに、思わぬ伏兵が待ち受けている。
つづく