KJラベルのおきて (1)
KJ法を駆使して何かを書こうとする場合には先にKJラベルを作っておかなければ次の段階には進めない。このことについて何回かに分けて話をしたい。
例えばブログに本格的文章を投稿し世に問おうとした場合、KJ法の出番であるが目安として、とりあえず30枚ほどのKJラベルが必要だ。
言うは安しで、これが中々きびしい。ネックとなるのはメモや本に引くアンダーラインがKJラベルに昇格する「おきて」の存在だ。
2019-03-29(金) 17:49:42 KJ法 川喜田二郎 中央公論社 P124
(ラベルづくりは)一見なんでもない作業に見える。しかし、以後の作業の死命を制する出発点である。
このラベルづくりをおろそかにして枚数だけ稼いでも、出来上がったものは本の引用だけが目に余る、書評の出来損ないのようなものに過ぎない。
引用が目に余る、と、つい口をついてしまったが、引用は文章を自動車にたとえた前回の投稿におけるガソリンであり、道を示すものであって引用そのものが主人公ではありえない。そんな二番煎じなら最初から書かないほうがよいのだ。敬して遠ざけると言うこと。言うは易しは百も承知。
余りのもどかしさにいっそ、引用した本が端からこの世に存在しなかったら良かったのに、自分が生み出した事には出来ぬか、などと不穏な考えがよぎる。
書いたものにオリジナリティーがひとつもない。これは読み返してみて とてもつらい。
パクリだらけの文章で自分の思いを語るうち、ついにまどろっこしくなって全くオリジナルの言葉で上書きするようになる、という話なら救いはあるのだが。
つづく