ハプニングを逸せず
リライト2019-11-21(木)
前回に引き続き、5原則の話題である。今回は (3)ハプニングを逸せずについて
2017-03-05(日) 11:33:23 KJ法 川喜田二郎 中央公論社 P221
昔、科学史・技術史専攻の誰かから聞いた話によると、人類の発見・発明のうち、大きなものはほとんどハプニングによるそうだ。計画的に追い求めて成功した成果は、魚とりにたとえれば、大魚ではなく中魚や小魚ばかりだという。X線はレントゲンがハプニングで発見した大魚である。彼は「X線を発見してやろう」と計画したわけではない。だいいち、X線という名からして、「おや、なんだろう」というハプニングからつけられたものであろう。だからレントゲンの偉さは、そのハプニングを逸せず、重要性を看破ってとりあげた点にある。
ハプニングと言えば仕事中や雑踏のイライラの中で、何の脈絡もなく言葉が走り出すことがある。
まるで頭の中で音楽が始まるが如く、一度でも奏で始めたら止めることは出来ない。
その内容は、かなりの出来だと思うこともあれば、恥ずかしいこと言ってるなと思うこともある。
もう流れ出るにまかせるしか無いのだが、それを書き留めるメモも、受信するPCも、記憶する脳みそもない。
家に帰ってPCの前に座り、パコパコやってみるがもうダメである。そう、一回しか再生してくれないのだ。
まさにハプニングを逸したのである。
ところで、メモさえ用意してあれば、一世一代のライブは全収録完了。めでたし、めでたし、だったのだろうか?
ビックデータに生きる我々はこの偶然を無邪気に喜ぶことは出来ない。偶然を装う必然への警戒は必要だ。
博士が一貫してKJ法の計算機への置き換えには否定的だったというのも何事かを暗示していないだろうか?
「発見」にしたところで、誰かの意図である可能性がある。もうこの投稿だって周到に誰かにあやつられて書いているかも知れないのだ。(例えば予測変換)
そんなディストピアを妄想してみる。
炎上でのハプニング狙いならばヤラセの一種だ。そして有象無象のサイバー集団…そんな予定調和の果ての作り物は、どこか病的でさえある。どんなに PVを稼ごうとも現実を切り取ったとは言えまい。
文章を綴る際のハプニング、何らかの天啓、それは神々しくも儚い一瞬である。文章の良し悪しを吟味する余裕はないのかも知れない。とりあえず書いてしまえ!としか今は言えない。
神やどる文章を生むか、それはまた別の葛藤を生むかどちらかだ。KJ法でいう良い葛藤であれかし。
俗っぽい話に直そう。
文章を、このまま付け足すのか、または別の話なのか、それとも全くの蛇足なのか、訪れた「偶然」に対しての確かな目を養わなければならない。
つづく