探検の5原則
今日もKJ法のお話
本からの採取によるKJラベル作成の話の中で、今までは「なんだか気になる」ものを集めるという話しかしてこなかった。
KJ法には取材にあたっては探検の5原則という歴とした基準がある。今回は、私の書き散らして来たことが、どれだけ本筋からズレているかを検証し瞑目して襟を正そうと思う。まず、探検の5原則だが、
2017-03-04(土) 17:30:59 KJ法 川喜田二郎 中央公論社 P216
テーマをめぐり、(1)360度の視覚から、(2)飛び石伝いに、(3)ハプニングを逸せず、(4)なんだか気にかかることを、(5)定性的データとして集めよ。
私が実践しているのは(4)なんだか気にかかることを、だけのようだ。ネット上に投げ出してあるのなら非常に偏りがあるので、他の原則についても気にかけて見ようと思う。
ところで、この5原則の中でピンとこないのは(5)定性的データとして集めよであろう。定性って何?
(5)定性的にとらえよ
定性とは定量(数値)化できぬものは科学にあらずと虐げられてきたもの全てに対する博士の謂ひである。KJ法が著された1980年代ではあまり一般的な言葉ではなかったようだ。今は普通に使われいる。
ちょっと夜郎自大な言い方になってしまったが、この流れで話を続ける。この二項対立はやはり文系と理系の対立ということなのだろう。
「対立」というのは、例えばこんなシーン。生意気に反論していた奴に、ちょっとした数式と理系的知見でハッタリかましたら、「ぐぬぬ」となってしまう。その場の空気は理系の文系への侮蔑、良くてシンパシーの眼差しで満ち溢れる。
こんなのは嫌である。文系のメンツにかけて博士の虎の威を借りてでも、理系叩きに狂騒する一文をものし、溜飲を下げたいところだ。
だが、ブロガーで読みたいと思うのは、多少理系的知見もお持ちの方だったりする。筆力だけで読ませるスタイルも毎回だと食傷する。
理系へのコンプレックスは抜き難くある。例えば今や経済を語るには、微積分の知識は必須なのだそうで、「○×を微分せよ」で挫折した苦い経験を持つ私など、日本の経済のことをネット上で大っぴらに語る(やらないけど)のはやめておこうという気分になる。
一時が万事このありさまで、何かを途中まで書いたところで(この仮定の根拠は…)とか(数字的に正しいのか…)とか(ソースは…)と、自分の中のルサンチマンの塊から発信がありジャミング化する。
これは困った。なにも書けないじゃないか!今更、数学なんて履修できないよ。
だから、このメソッドは使うしかないのだ。定量的にあやしい部分はカッコで括って「それは難しい問題である」とか言っちゃってお茶を濁すしかない。
(1)360度の視覚から
取材では決めつけるな。という博士の話。そのまま書いても退屈なのでブログを書くときの心構えに応用してみよう。
決めつけとは犯人探しの前に犯人の目星をつけてしまう事。博士が濡れ衣(誤謬)を着せられる恐れがあると戒め、実話も交えて力説している箇所(P217〜218)である。
余計な予断は交えずに書け!書き進んだそこまでの総体のみが次の言葉を決めるのだ、道を示すのだ。
文章での決め付けにあたるのは、結論を急ぐあまりおよそ文脈からそれた文章の飛躍や「それを言っちゃオシマイ」的な文言だ。決めつけたら後が続かない。別名「話の腰を折る」と言う。
その結論で本人が納得できるならば良いのだけれど。
しかも、一度書いてしまったらその文章は自分を縛る「呪」と化すおそれがある。「はい、論破」みたいな決め付けは誰あろう自分が一番縛られる。
どうしても書かねば成らぬ時は自分のかけた「呪」を解く展開を用意しておく必要がある。
不思議なものでそうしておくと文章の座りがすこぶるよろしい。
つづく