どこからパクったのかが丸わかりのタイトルだが、これはリスペクトである。
何でもかんでもKJ法(考える花火)で書いていれば良いというものではない。時にはサッと書いてしまった方がよい時もある。
すぐ書けることは、常日頃から考えていて澱のようになってしまい、書かねば気が済まぬ(※1)ことでもある。
しかし、現代社会は複雑怪奇。筆が走るにまかせていると、自らの放つ毒に当てられる。というより書こうとしている対象が毒そのもので、知らずに書いているとイヤな気分になってくる事がある。
今、書こうとしているものの前提となるものは何か?それは世の中と共有されているいることなのか?もし、共有できていないものを書くつもりなら、この複雑怪奇なるイヤなものを解毒して活写しなければなるまい。その時こそKJ法の出番だ。書いてスッキリすること請け合いだ。(※2)
KJ法で小説もいけるのか?
詩や小説。ご本にはKJ法で小説も書ける、みたいな件もあったが具体的な方法は書いていなかったようだ。
書けないこともないんだろうが、ここは以前書いた井上光晴式文章上達法の方をお勧めする。KJ法を使うなら、プロットの部分の補強で使うのが自然で、呻吟の場面でKJ法は場違いのような気がする。
人間、良い考え方に接すると何にでも試して見たくなるものだ。ご本にも万能薬たらんとする記述があったかも知れぬ。
しかし、無理やりKJ法の考え方に合わす必要はない。
※1 書かねばならぬとは、前向きの事ばかりとは限らぬ。それは、むしろ後ろ向きのことが多いだろう。例えば思考命題「憎いあんちくしょうを×× する」で花火を作成するとしよう。そればずいぶん陰惨なタペストリと化す。黒魔術のようで、その図を見て書くのをやめた。危ないところだった。
※2 KJ法が精神疾患に対して有効であるとの記述があったように思う。迂闊には触れられない案件だ。よく調べてから書くことにする。