混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

飛び石伝いに

本日で「探検の5原則」の話も全部出揃うことになる。最後を締めくくるのは(2)飛び石伝いにである。

2017-03-05(日) KJ法 川喜田二郎 中央公論社 P219
おそらく新聞社の社会部の記者は、この原則をよく実行している。彼は朝出勤して自分のデスクに座ると、間もなく電話がかかってくる。大山町に怪奇な殺人事件がおこったという。さっそく飛び出して、「とりあえず」現場にかけつける。そこでの聞きこみにヒントを得て、次に浅岡市かけつける。そこでまた得た追加情報で、さらに牧野山の山荘を訪れる。こういう具合に飛び石伝いのようにして、その日の夕方には花田町の裏長屋にもぐりこんでいるというわけだ。

A地点からB地点。本Aから本Bへ。飛びついた本が論証の佳境に入ったところで「詳しくは拙著をごらんあれ」と、はぐらかされた苦い思い出。、研究ではなくご商売ですか?と著者に憎まれ口を叩いてみる。

私はこの飛び石伝い作戦とは相性が悪い。本のハシゴをしても知りたいことが書いてあった試しがない。新たな、気を取り直し読んだ本の中で、またしても「くわしくは拙著」のコンボである。

知りたいことは全集の何巻目とかいうのもあった。私の資金と住宅事情じゃ太刀打ちできない境地である。瞑目するしかない。

国会図書館に行くという最後の砦だが、今はどうだか知らないが、私が卒論の資料を求めに行ったときは、とにかく待ち時間が多すぎて一日つぶした経験がある。その資料は結局卒論には利用出来なかったのだから、非効率この上ない。

だからといって現代のように検索すればすぐ答えが帰ってくる、というのも問題だが…(実はそれは答えではない。問い続ける事から逃れるための方便なのだ。)

本から本への橋渡し役は参考文献だが、載せても事実上参照できないくらい入手が難しかったりする本をリストに加えるのは如何なものかと思う。要約でもいいから要旨を明らかにすべきだ。そのタイトルで売ってるのに他所の本に丸投げするんじゃねえよ!となる。これは学生のころから思っていたことだ。

参考文献と言えば、参考文献は知的興奮を誘われるのに、なんで本文はこんなにスカスカなの?という著者がいる一方、書いてあることはおもしろいが、深めようとし参考文献を参照したとたんドツボにハマるタイプの著者がいるように思う。

本から本へ、だけではもちろん限界もあろう。KJ法の取材とは本を読み漁るだけのことをさしているのではない。今更ながら思い当たった次第である。