混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

書くということは身体運動である

リライト2020-6-28(日)

書き続けていないと書けなくなる?

サボればせっかくつけた筋肉が落ちるように筆力もなくなる?

なぜか文章については書き続けていないと書けなくなって3ヶ月も書かなければ、もう元のように書くことが出来なくなってしまうというような強迫観念じみた言説が、ことにブログ界隈では妙な説得力をもっている。

ビジネス文書も文章だよ

しかし、まるで誰とも口を聞かずに失語症に陥るがごとく、そんなに長いあいだ書かないことが現代社会で本当に可能なのだろうか?

働いていないならばともかく、仕事でメールくらい書くと思う。そして、それらの文章には必ずきつい校正係たる上司、得意先がいるはずである?

それは必ず読まれ、あまつさえツッコミを入れてくる場合もあるという幸福な文章でもある。どこの馬の骨ともわからん奴が書いたブログの駄文なんかよりね。

日報や報告書は上司が書くので…というならば、それはそれで羨ましい限りだ。文章を書くだけが人生じゃないって。

自転車じゃあるまいし

問題はむしろ、一度書けるようになったら自転車でも乗るように死ぬまで書けるという話。こっちの方だ。そんな虫の良い話があるかよ。ずっと歩かなければ歩けなくなる。不随意筋であるまいし、意識して前足、後ろ足、前足、…それ以外に方法はない。

家のカギを掛けたかどうか外出先で不安になるのは、家を出てから電車に乗るところまでが自動化され、無意識に体が動いているから個別具体的な一動作は記憶されないからだ。

時間までに職場に行くという行為全体の中で、カギをかけるという行為はなくてもできる。必要なのは歩いて駅まで行くこと。電車が定刻についてそれに間に合うことだけだ。

カギをかけるのは防犯のためだが、これがカギをかけるという意味である。意味が認識されぬ行為は無意識的である。無論こんなことを毎朝考えていたら遅刻する。

ところが文章とは驚くほどに個別具体的に意識的であらねば成立しない。無意識では、ものは書けぬ。それは、朝起きたら歯を磨き…ということを延々と述べていく例の訓練のことであり、カギひとつであっても無意識的ではない世界線の住人に成り切るといういうことなのだ。

ただブログの場合は同じようなテーマを扱うことになり勝ちだから、繰り返しには習熟が発生する。

書けないの正体は「めんどうくさい」だ。

習熟するにつれ、ある程度の自動化は起こるがサボればあっという間に錆びつく。なんのことはない、面倒くさいだけなのだ、一からやり直すことが。この落差こそが書けなくなったと錯覚する感覚なのかもしれない。もしあらゆる場面で自動化が頻々と起こりうるならば書き続けるという意義は速度の問題だがさらに妄想をたくましくしてみる。

すると、自動化は習熟を生み、習熟は質を伴いながらさらに高速化され、やがて高速による量がそれ自体を次元の違う世界にいざなうということを可能にするかもしれない。

もはや神業と言ったところか。しかし案外これが上達ということではないのだろうか。してみると全然量が足りてないな、このブログは。