乱読も良いけれど
乱読も良いけれど
興味の赴くままに乱読を重ねていると、果たして読んだことが血肉になっているのか、覚えているのかという罪悪感に苛まれることがあり、しばしば読書を中断せざるを得ないことがある。覚えているかどうか確かめるというようなことをしてしまうと、読書どころではなくなってくる。読書に耽る(耽るには逃げるという意味がある)、ということを否定するつもりはないが、読んだものはやはり身について欲しい。それについて一行物申そうと思ったのだが、先に書いている人がいた。
2017-8-31 スエデンボルグ 鈴木大拙 講談社文芸文庫 P224
いかなる環境であれ、あるいはどれだけ熱中したかという差はあれ、いったん読んだものは、読んだ本人がすっかり忘れたと考えていても、失われることは絶対にないのです。これは立証された心理学的事実です。そうである以上、年を取ってから過去を思い出すこともあるでしょう。いろいろな出来事が重なって、かつて何気なく口に入れた種が成長するに好適な心理状態へ彼を引き戻すかもしれません。これが大事なのです。
乱読の免罪符
いずれ読み返してみて何も引っかからない場所に収まることを信じて、せっせとラベルを貯めていく(KJラベルのこと)それが何の役に立つのかわからないけれども、これは気になるんだということを優先順位の一番に置くこと。そういうことをしているだけでも乱読の免罪符にはなっているような気がする。
飽きてしまうということ
ただ、貯めておくだけだと鮮度が落ちてくるのも事実だ。積ん読もそうだが、ラベルを積み上げておくだけだとテーマそのものに飽きてしまうということもある。完全に興味を失う前にこの辺で文章化しようと思う。これはテーマを飽きさせない秘訣だ。いわゆる活性化ということだ。
鈴木大拙には勝てません
ただ、書けば良いというものでもない。この文章は鈴木大拙に引っ張られすぎである。同じような趣旨のことを先に書いている人がいて、それが出来が良いなら、もっと上を目指すか、書くのは諦めてよい読者となる他はない。かっこ悪い読書というのは、話を盛るために読み漁るというようなことだ。同じことを考えていて、それをうまくいい仰せ、当分それ以上のものを書けそうもない場合、良い読者に「成り下がる」というのも、有りかもしれない。