パソコンで文章を書くことへの違和感
手書き原稿への憧れ 前回、パソコンで文章を綴ることの弊害というか、不安について述べた。(寓意として)、紙と鉛筆、手書きへの憧憬も仄めかしては見たが今更アナログ回帰は出来ない。それが出来るのは、手書きの原稿をちゃんと電子化したり本にしてくれるスタッフがついているプロの書き手の話だ。
かな漢字変換システムの奴隷となるな
日本語入力システムの何が問題なのか 手書きを横目に眺めながら我々しろうとは、この日本語を執筆するにはまことに不向きな、できそこないの機械と今後もお付き合いしていかなければならない。まず、一見便利に思われている機能について再考を促したい。
かな漢字変換
何千何万とある文字に全てキーで対応させるわけにいかない苦肉の策。仕組みについては変換と言うよりも植字工のアナロジーという面が強い。非常にまどろっこしい。執筆の足を引っ張ること夥しい。
辞書学習機能
擬人化で「学習」などとついているからAIまがいの、パソコンが考えてくれるかのような誤解を生む。パソコンは考えないし、学習もしない。命令されたことを実行するだけだ。学習しているのは自分の方だ。辞書を鍛えるというフレーズも同根。それに捧げられたコスト分はしっかり文章から徴収されているはずだ。
予測変換機能
巷に聞いたふうな文章文体が溢れかえる元凶。仕事用。オリジナリティーの一側面として、その文脈の中でしか生きてこない言葉を「発明」するということがある。そんな佳境でマヌケなフレーズが視覚に飛び込むことのストレスは相当なものだ。
パソコンとは時短の道具である
発想の消滅
見当違いの変換候補をだらだら眺めていると、何をやっているのか分からなくなることがある。発想はどこいった?逃げ足は割と早かった(涙目)
考えながら書くには不向き
何を書くのか決まっているなら手書きより早いかも知れないが、考えながら書くと言った場合はパソコン(ワープロ)には紙とえんぴつのような自由度は ない。
パソコンに自分の思考パターンをトレースさせることも出来ない。(※後日注 生成AIの登場で、思考パターンを覚えさせることは可能になって来ている)パソコンが人間を凌駕するのは、計算、複製、反復繰り返し、そして検索だ。
パソコンには検索をさせる
誰にでもすぐに取りかかれるのは検索だろう。ということは自分がいったん書いたものはどんなものでも残しておけということになる。どこに使えば良いかわからないフレーズ 、書いて煮詰まってしまったもの、書き出しが気に入らなかったもの、etc. ファイル名など見なくてよい テーマごとに分類する必要もなければ、適当な名前で保存したファイルが、何百あろうが問題ない。整理に時間を掛けないことで時間を生み出すんだから。 使用しているOSにあわせて 例えば、執筆中に前にボツにしたフレーズの使い道を見つけたら即検索する。Linuxのやり方を書くが、自分の書庫ディレクトリに移動して、
find ./ -type f -print | xargs grep -n '黒歴史'
とでもやればよい。気に入ったらコピペして執筆を続けるという流れだ。
そんなにうまく行くかよ、という思いはある。もちろん全てに当てはまる分けではない。過去のしがらみを離れ、いったんリセットして考え直した方が良い場合もある。試行錯誤は必要だ。