混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

ブログ開設4年目にして日記開眼!

このブログには日記のようなことは書きませんと宣言しておいて、最近の投稿は日記そのものだ。

ブログの立ち上げから4年も経って心境の変化もあるのだろう。

日記ほど現在の自分とシンクロしている文章はない。それが嫉妬とか怠惰が通奏低音になっていたとしても読後感さえさっぱりしていればいいのだ!それくらいの筆力はあるさ。

実際、石川啄木や太宰治はヤベーやつ、だろうなとは思う。だが、それと彼等の作品とは関係がない。そして私の文章の取り組みや生き様がどうであろうが、書く文書には関係がない。

などと言い訳して、好き勝手なことを言い続けてきたわけだが、本人とあまりにも接点がなさ過ぎる話をしても、結局は続かなかった。

他人の受け売りを超える話ができない。だからこそKJ法の出番はあって、予定ではこのブログは三千素材(記事)くらいにはなっていて、レゴのごとく素材の組み換え自在な妄想文の巣窟となっているハズであった。

ソシャゲにうつつを抜かし本なんて一冊も読まず、最後の読書は、試験勉強で無理やり読まされた教本だったというオチ。

書ひょーも、時事ねたも、なんちゃらレビューも、別に私がやらんでも良くね?

日記のようなことを書くブログも、これだけテキストサイトが熟れて来ると、逆に貴重なものとなっていくのかもしれない。