混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

KJ法がめんどうくさい

KJ法は時間がかかる

KJ法で組み立てた文章を投稿をしたこともあるが、何も用意せずに書ける時に(非常に限定された天運だけど)書いてしまうのが楽である。本ブログのあまたの投稿あれどどれだけ時間を費やしてもパッとしない、初稿のほうがマシという場合も多々ある。

要はKJ法の煩雑な手続きでかけた時間の元を取るだけの習熟度を獲得していない。近頃はだんだん我流がすぎてKJ法なのかどうか怪しくなってきた。これでは良くないので少し喝を入れる文章を書いてみる。

KJ法は頭は使わなくてよい

しかしこのメソッド、あまた啓発本(文章の書き方とかの本も含む)のような早い話が「一から出直せ」「頭を使え」みたいな局面はほとんどなく、581ページの大半を占めているのは、ただただ「作業」あるのみである。あとは床も抜けんほどに用意された有象無象のKJラベルの塊があれば良いというシンプルさ。

職人芸的発想の転換や、文才などの才能による解決を全面的に廃し、凡人でも地道な作業を繰り返すことによって本然に至るというのがKJ法の考え方である。

それゆえに知的生産物の技術に関する本でありながら、はっきり申し上げて退屈である。全て読破するのは苦痛ですらある。(全部読んでいません)

実際やってることは知的な何かではなくて見た目パソコンも使わないで手書きの付箋だらけ、ビジュアル的に素朴な印象。

だが、少し待て。頭を使ってないとは言いながらめんどうくさいという感覚は全体把握なしでは出てこない感情なのではないか?すでに何から手をつけていいか分からず途方にくれるという下手な考え休むに似たりの境遇は脱しているのだよ知らず知らずのうちに。

文章で行き詰まりがちな人から見れば、これは凄いことなのである。どこを切ってもその時点でテーマとして最善の文章の塊が常に存在し、そこから考えを生み、贅沢に目的のために使っていくのだ。次々に文章は生産され、そして贅沢に没にしていく(笑)。B型叙述化の本領発揮である。そしてブログに記事を書くだけなら、ここが終点だ。

知らないうちに頭は使われていた

頭は使わず、手作業ばっかりやる局面はものを生み出す工程では必ず出てくる。作業は飽きるしダレる。時間がかかっているのは考えている時間ではなく作業時間なのだ。

頭を使えと言われて頭は急によくならないが、作業効率なら短縮出来るだろう。コストが見合えばアウトソーシングしても良いのだ。漫画家がアシスタントを使うが如くだ。

結局、頭の使い方を覚えろ!と直截に言われたらむかつく話を、581ページかけてすべて「作業」に落とし込み、遠回りのようであっても凡人でもわかるように丁寧に説明しているのが、このご本なのである。