混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

KJラベルのおきて(3)

梅棹忠夫の「こざね法」では…

考える花火で使用したカードは終わったら捨ててしまえなどとは、実はKJ法のどこにも書いていない。

それは、KJ法の源流でもあるこざね法の紹介の中で出てくる話である。

2019-04-08(月) 13:32:52 知的生産の技術 梅棹忠夫 岩波新書 P224

じつは、この方法(こざね法)は、かなりまえから、わたしたちの仲間のあいだで、すこしずつ開発がすすんでいたものであった。ところがそれを、理論においても実技においても大発展させて、たいへん洗練された技法にまでもっていったのが、KJ法の創始者として有名な、東京工大教授の川喜田二郎君であった。

梅棹忠夫氏といえば川喜田博士の盟友としてつとに有名である。KJ法の元となった考え方であるとともに、このこざね法考える花火は双子の兄弟のようにやり方が似ているのである。そして、使ったカード(こざね)のことについては、

2019-04-08(月) 13:23:37 知的生産の技術 梅棹忠夫 岩波新書 P223

この作業が終わったら、こざねはもはや不要である。まるめて、すてればよい。

この話を奇貨としてカードを嬉々として捨ててしまう前に、もう少し検証しよう。

例えば卒業論文で原稿用紙100枚を課せられたとする。とにかく枚数を稼がなければ卒業出来ないので、調べた案件や考察はすべて論文に盛り込むといった場合、カードに書いてあることは原稿用紙にも書いてあるのだから取っておく必要はない。

問題は取捨選択した場合だ。カードを捨ててしまえば、採用しなかった側の考えは、ついに記録に残らないことになる。それはやがて忘れ去られる。

しかし、考える花火とは本格的KJ法の方便であり、既に言い尽くしたとも思う半面、これで終わりではないという考えも よぎり捨てるのを迷ってしまうのだ。

只今現在の私にとっては不要かも知れないが、未来の私が必要とする可能性は十分にありうるではないか。

考えの圧縮作業としてのKJラベル

長々と書いていたのに、「つまり一言で言えば」と言い切ったとたん、呪文のように文のすべてが たちまち陳腐化するならば、失望の半面その一文は KJラベルそのものである。有象無象の思いつきはこの一枚に集約され、次の出番を待っているとポジティブに考えることも可能だ。

圧縮された考えは、その時がくれば、その局面にあった形でいくらでも展開できる。逆に取っておいたカードは事ここに於いては独善が鼻につくは単なるノイズに堕するのさ。「取っておいても ろくなことがない」とは、その辺の機微をついた呟きである。

いまは、そういった考えの元に、机の上で収集のつかなくなった紙切れ(手書きの原稿もある)群を始末している。

「取っておいても ろくなことがない」という言い草には むろん負け惜しみも混じる。「いくらでも展開できる」などと強弁はしたが、現在、書斎スペースを持てない以上、そうするしかないのだ。いや、だからこそ、とことん突き詰める必要があり、やはり考える花火では不十分なのだ本格的KJ法が必要なのだという話になってくる。

これから、何枚くらいのKJラベルが生み出されていくものかは分からないが、うまい電子化の方法が見つからなければ、いずれは書斎が必要な量になってくるだろう。

読み返してみて上の段落とは話が矛盾していることは百も承知である。結局カードは取っておくの?捨て去るの?これ今執筆している住環境より生じるという話になってきた。このままだと「書斎のすすめ」なんて書きかねない情勢になってきた。はたして己れの住環境の限界がKJ法利用の限界か?

つづく