混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

KJ法について

KJ法の素描

私のホームページのタイトルになっている「混沌をして語らしめる」(正確には「渾沌」)は知る人ぞ知る、川喜田二郎著「KJ法」のサブタイトルである。KJ法にあやかってつけたからには、一度その素描を試みねばならぬ。

理屈は明解、しかし実践は難しい、それがKJ法だ。正則な研修も受けず自己流で解説するのはもっての外だという博士の戒めも肝に銘じたいところだ。

何だか気になって仕方がないことがある

これが出発点である。そして、そのことを忘れぬうちに書き留める。これが「KJカード」の元となる。

次に同じ「志」を持つKJカード同士を理屈よりも先に「情念」でまとめグループ化する。輪ゴムで束ねて表書きに結集の証たる「旗印」をかかげる。これが表札となる。

次に旗印をもとに「志」の近いグループと相容れぬグループを上手に空間に配置し競わせてみる。すなわちこれが「A型図解化」である。合戦絵巻のようなものと思って差し支えない。

その合戦絵巻を向こうに見ながら淡々と叙述する。これが「B型叙述化」である。

合戦を描けば叙事詩の趣きとなる。ワクワクする。そして漠然たる妄想に路を示すということ。KJ法をおおまかに素描すればこのようなことになる。

研修が必須

「KJ法」は現在絶版のため、アマゾンの中古で(大枚はたいて)手に入れたのだが、読み出した最初の数頁目に絶望的なことが書いてある。

2017-07-30(日) 13:42:38 KJ法 川喜田二郎 中央公論社 まえがきv(5)

だから御注意しておきたい。この本をいかほど読んでも、KJ法は体得できない。すなおな道に通ずる研修コースの受講と、本番の仕事での実践の積み重ねが必須である。それがなくては所詮畳の上の水練である。しかし研修と実践の体験を多少とも持つ人には、この本は有益だと信ずる。

端的に言って集団での成功体験のことだ。これは一人では出来ない。研修が必要なのだ。

そして「本番での実践の積み重ねが必須」とある。

一人でやるものではない

「本番」とは何か?実はこの 581ページにも及ぶ大著の大部分は集団討議、集団作業、取材術と、集団で集めた膨大なデータを共有化する為の工夫の言及で占められている。

ブログの文章をひねくることに使ってもいいのか

ここまで読むと実践が難しいというよりもお門違いではないかという気もしてくる。しかし待て。

スタートは自分の妄想である。人は自分が身につまされた話題しか書けやしない。いや書いちゃいかんのだ。けれど、ルサンチマンをそのまま書いたら自分が救われぬ。

漠然とした妄想にも未来に血路を見出す必要がある。そして熱く語って投稿したら、翌日には何も覚えていないくらいがちょうどよい。

KJ法は時間がかかるという批判があるが…

KJ法のプロセスには、書きすぎに陥らない適度な疲労感がある。やりすぎないから考えすぎない。あ、もういいかな、みたいな落としどころを必ず見つけてくれる。それは、そんなに悩んだのだから、もうそろそろ書くことを決めるべきだという意思でもある。

A型図解化という内部探検

KJ法におけるA型図解化とは、問題解決の手順を図式化したものではない。フローチャートやマインドマップとは似て非なるものであることを肝に銘じる必要がある。

これは頭の中のナニモノかを「情念」によって半ば強引に目に見える形に翻訳したものだ。

とにかくやってみる

何とはなしに眺めているうちに(これがポイント)ここは囲え!と閃いたら島取りしてグループ分けしていく。

何かちぐはぐに感じながら、それでも目に見える形にしていく。フレーズだけとも考えだけとも付かぬ「何か書いてあるだけ」の断片的なポストイット(既にKJラベルは市販されていない)を配置してみて関係線を引いてみる、反目線を引いてみる。(トライアンドエラー時はクリップを使うとよい)関係と関係の狭間を文章を追加して補強する。島取りには表題を書く。書き込みが増えてきたら島取りを加える。さらに大きな島取りで囲ってみる。そして全体を見通す。

手を動かしているうちに予断は次々と沸く。そこが付目でもあるのだ。そうなると元ネタの本を読み返して見たりする。結論が見えたように錯覚して「それは、この本の結論だろ」と思い直す。あぶないあぶない盗作になるところだった。

そんなことを数ラウンド繰り返せば、何かが見えてくると本には書いてあるのだが、私の場合は不完全な作品しか書けなかった。やはり研修は必要なようだ。

己れの乱読の歴史に筋を通せ!

作業自体は、そのプロセスに限って言えば非常にスリリングで何か思いもよらない結論が顕在化するという期待感でゾクゾクした。

結局、結論まで導けなかったが過程だけ見ると、そして最初のタイトルに立ち帰ると確かに「混沌をして語らしめる」だな、という感慨はあって、無意味だとは思わない。本と本が有機的につながる。自分が興味を感じて一度は手に取った本である。まったく無関係に存在するとは言わせないぞという「情念」で望むのだ。我ながら牽強付会と紙一重だとは思う、だから研修は必須なのであろう。

KJラベルがなければ始まらない

試しにやってみたい方はまず、カードを20〜30枚くらいためなければならない。弾がないとやりようがない。

乱読派を自認する貴方なら、このくらいすぐに溜まるはずだ。

パソコンで打って、印刷してバラバラに切り離すでも、一枚一枚ポストイットに書くでも、やり方は自由である。

手を動かしているうちに何か閃くのだという博士の言によるなら、後者の方が良いのであろう。

A型図解化作成にパソコンは使うな

部屋が乱雑になることを避けるため、つい空間配置を紙ベースではなくてマインドマップアプリなどを流用してパソコンに置き換えたくなるのだが、これはおすすめしない。

全体を見通すということがパソコンの場合スクロールと拡大/縮小に置き換えることになるのだと思うが、このような作業は思考の中断を招くからだ。よほど大画面でないと全体把握は難しい。家庭用の小さなモニタでは当然拡大すれば全体は見渡せず縮小すれば細部は確認できない。

マインドマップアプリが有効であるのは最初に結論が分かっており、道順が辿れればよいマインドマップのやり方に合致するからであって、何が問題かがわからない。問題を探すために全体を見通すことが何よりも大事なKJ法とはそもそも考え方が違うのである。

理想を言えば模造紙が置けるくらいの大きなテーブルが必要である。

とはいえ住宅環境によっては容易でないケースもあろう。最初は紙でやるとして十分に練られてきたなら写真なりPDF(追記も可能だし)という折衷案はありかな。