混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

謹賀新年2023

KJラベルもたまってきたが何も着手していない

KJ法のブログなのにKJ法をやってないという現状を新年の抱負の代わりに赤裸々に語ってみよう、ここに至るまでの経緯を。

以前ブログに書いたこととの整合性の問題

新年早々、読者の皆様に謝らなければならない。以前の投稿で書いた、重さで床が抜けるほどのKJラベルを所有しているだとか、夏休み最終日に宿題が終わらず半泣きな小学生のような心境だとかは、全部ウソです。

うそをつく、つもりはなかった

本当は90枚程度のラベル数で、この誇張表現もいつしか本物にするつもりだった。それだけ、気力は充実していた(ような気がする)専用のブログまで作って備えたわけだから。維持費もタダではない。

KJ法のやり方ってどうするんだっけ

最近は本さえ読まず、ソシャゲに熱中。KJラベルの収集など夢のまた夢。やり方ってどうするんだっけと言う堕落ぶりである。ここで、勉強をし直そうなどとカラ元気を出しても後が続かない。トドメをさされる可能性だってある。要するにラベルをいくつかに分類して、それに表札をつければいいのだろう。それを床に置いてなんとなく眺める。そしてそこで思いついたことをメモしていく。そこから再出発だ。

問題は空間配置。せまいアパートじゃ空間配置は絶望的ならばパソコンでやるか

狭いアパートでやるのは無理がある

大きな紙を用意して、それに書き込んでゆくという、おなじみの作業だ。その様子は、KJ法ではこのように描写されている。

2022-12-29(木) 18:21:51 KJ法 川喜田二郎 中央公論社 P133

空間配置と言うのは、この数束の表札が訴える内容が、どういう空間配置をとれば、意味の上で最も判りよい相互関係の配置図をなすか、それを探って空間的に配置する作業である。(中略)〜そのゆとりは空けておく。また、以後何段階にもわたって空間配置を展開するので、分厚い束は後で広い場所を必要とするものと予測しておく。

せまいアパートでは出来ない作業であることが「予測」されてしまっている。

細分化という苦肉の策

三段階くらいに大マップ、その部分部分をさらに中マップ小マップと細分化しないと書ききれなくなるおそれがあるんだが、これは実はアウトラインプロセッサーと同じ思考回路だよな。ここまで自由自在に操れるアウトラインプロセッサーがあれば、KJ法の電子化も見通しが立つのだが。Emacs? Org-mode? うーむ。

全体が見渡せないならパソコンでやっても同じでしょ

あれあれ?紙ベースなのに全体が見渡せないんなら、パソコンでやっても同じでしょ、という話にならないか? 少なくとも大学の教室を自由に使ったり、公民館を貸しきったり出来る身分じゃないのだから。そもそも、なんでこんなにアナログなんだろうというところに立ち返って考える必要はある。KJ法の電子化はほんとうに無理なのか?

パソコンでやるとなったら、全部打ち込む必要があるのだ

パソコンでやるとなると手書きの90枚を電子化しなければならない。これはすごい労力だ。アルバイトを雇いたいくらいだ。

折衷案 パソコンと手書きの使い分け

中途半端に手書きとパソコンの併用で図だけバーチャルな空間でいくらでも広げて行けば良いのでは?と考えてみたが、画面見いのラベル見いのでは視線の移動が多すぎて頭がこんがらがりそう。思考の流れが信条のKJ法で思考の分断と混乱に拍車をかけるなら、やらない方がマシかも。

すでにラベルはあるんだから、ありものでやれ。90枚くらいなんとかなる。

どうやら手書きでやるしかなさそう。90枚にもなると。聖典「KJ法」よると共同で集めた1000枚くらいのデータの取扱いの話をしていて、こっちは90枚なんだから、やってやれない事もないんだよ。曲がりなりにも1回それで卒論書いたでしょ。

あとがき

久しぶりの投稿でした。ここまでブランクが出来てしまうと設定した条件、つまりついたウソを忘れてしまっていて、これの整合性を取りながら、書いていくというのがきびしくなってきます。それと忘却のなんとおそろしいことか。 ブログを新規投稿のパスワードとかも、さっきあぶなかったじゃないか。あと数ヶ月、投稿しなかったら、完全にパスワードを失念して、事実上の閉鎖の可能性もありました。