推敲もせずダラダラ書く話の続編。
半分白いノートという日記を付けていている。その名の通り見開き右半分が清書用に空白のページとなっている。

これを1年以上も毎日書き続け、気が向いたら清書している。清書の進捗ははかばかしくなく、どのページをめくっても右半分が白い。それで自虐的に半分白いノートと呼ぶようになった。
さぞや名文が犇めいているのかと思いきや、清書しかねるようなルサンチマン渦巻くDEATH NOTEのようなノートだ。中学生がするようなことを未だにやっていて、我ながら呆れている。
技能習得一万時間の法則と言うのがあって、それに拠れば今のペースだと文筆の達人の域まであと二十七年かかるということらしい。いつまで生きるつもりなんだろう。
とはいえ、毎日書く習慣が出来たと言う事は喜ばしい。
寝る前の20分かそこらで文章が書けてしまうのは、この右側の何も書かれてないページのプレッシャーの所為であるといえば奇異に聞こえるだろうか?
左側を読めば辻褄が合わない箇所もあるし、突き詰めねばならぬ箇所が出てきてもどうせ清書するんだからと問題の先送り、確かにそうだけど清書するのは私なのだ。文句あるかである。
文章の修練の話だと、さっきの1万時間の法則だ。これも書くそばから例えば20分書けば、清書で書くであろうそれ以上の時間を右の余白が自動的に生み出してくれる。
そんな現代貨幣理論みたいな謎理論によれば時間も半分!なんと二十七年は十三年ちょいに短縮されるのである。
十三年というのは中々生々しい数字ではないか。途端に色めき立ってくる。ならば達人になってみようか、と。
半分白いノートとは、いわばまだ見ぬ完成品へ至るプロセスを端折る事だ。書いたと言う仮定さえあれば良い。仮定とは余命尽くまで書き続けようと言う意思の事。そこまで腹を括ったならば、あとは完全品を右の余白から召喚するだけだ。楽勝でしょ?
そんな世界線で今日も書いている。