混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

ハズレの本

まあ、あたりかハズレかなんて軽々に論じられない。読了後にじわじわ効いてくることだってあるだろう。読んでみて試薬のように自分にあってるかどうか試すしかないと思うが、その話は置いといて今日は本棚の話。

華奢なアパートに住んでいるせいで、あまり豪勢な本棚を構えて壁いっぱい本を揃えるわけにはいかない。床が抜けてしまう。人に迷惑をかけたくないなら1階にすむしかないのだが、あいにくここは2階だ。本のスペースには気を配らざるを得ない。

何を言いたいかと言うと、ハズレの本を置いておく余裕がない。装丁が気に入ってインテリア代わりに置くという贅沢が出来ない。

さて、何を持ってハズレの本と断じるかである。まあ、読む気がしない本、部屋に置いておくだけで恥ずかしくなる本ということになる。

これでも「三国志武将に学ぶできる男・できない男の法則」みたいなキャリアポルノ本は読まなくなった。隠れキャリアポルノ本を掴まされて読んでいる途中で気がついたということはあって、まだまだ修行がたりない。

読む気がしないと強がってみせるものには、本の内容が難しすぎて読みこなせない本も含む。全部がダメなもの、虫を食ったようにわからない箇所が甚だしい本、小説でも「難解だな」と言って茶を濁すものがある。

手を出さなければ良い話。そういうチョイスもだいぶ減ったが、読めない本がいつまでも部屋の中にあるとストレスを感じてしまう。内容はどうあれ部屋に置きたくないのだからハズレ本である。

読めるように勉強しなさいという話もあるけど、何気に手にとった本を読んでいたら、熱力学のパロディーになっていることを、本の半分くらい読んで明かされたというのもあった。俺はこの本を理解し味わうために熱力学を極めねばならないのか?っという話で切りがない。人生は短い。

内容はどうあれと書いた。まあ、蔵書すべてをホントウに理解しているのかと言われれば、そもそも内容を忘れてしまった本がほとんどだ。背表紙を眺めて、ああ去年の夏ころ読んだよなという記憶があればまだ良いほうだ。

だからこそのKJラベル化なのだ。