混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

腹が立つことは書いてしまえばスッキリするか?

さて、どうにも腹立たしいことが生きていれば色々ある。例えば、

  • アパートの隣人が夜中うるさいとか
  • 仕事の失敗を人のせいにされたとか
  • 見知らぬ通行人にメンチ切られたとか

どうでも良い話ばかりだが、すこぶる付きの思い切りのわるさが災いして頭の中でむし返す。

書けば清々するだろうと思って書くのだけれど、ますます悶々として逆効果だ。思い出し笑いの真逆が我が身を苛む。

世の中、そんなに甘くない。主語を大きくして ちょっと文字に起こしたくらいで怒りが雲散霧消するならば、誰も苦労はしない。かと言って願望一直線のご都合主義で溜飲を下げたところで、現実は何も変わらない。自己肥大の果ての滅びが待っている。

文章に起こすとなれば、編集が入るから、もうその時点で事実そのものを書いているわけではない。

つまり、主観が入り混じりフェアじゃないのだ。

たとえ嘘話に変化しようと、ヤラセだとか、話を盛っとる、とか言われようが、書いたもん勝ちであるという、どうしようもない部分を抱えつつ執筆は続く。

よくできた話ならば、(その話を中心にして)都合の悪い真実はなかったことにするだろう。

そして、脱稿のゴールが見えるにつれ、いや〜な気分になってしまうのなら、まだ見込みがある。こんなのウソっぱちじゃねえかと感づいてしまうのだ。

またまた救いのない話になった。

頼みのKJ法はといえば…

自分の「何だか気になる」だけ集めたKJラベルが、自己肥大に陥らない保証はない。KJ法のノウハウの集積や、研修はそれらのものを担保している訳ではないからだ。

残酷なほど忠実に作者に似た相貌を呈するのがKJ法だ。

結局、甘くない世の中にはKJ法がよく似合うということ。「謂いおうせて何か有」である。言語化をあせるな。