書けると思ったんだがなぁ…
あるテーマについて項目が泉のように次から次へと湧き出し、それを肉付けするだけで文章が完成するというのは、やっていて気持ちの良い作業だ。原稿が既に頭の中に出来ている状態(証拠)だ。
しかし、このような僥倖がいつも訪れるとは限らない。アウトラインを列挙しようとしても、何も思い浮かばない。思い浮かぶまで待っているというような「下手な考え休むに似たり」の状態にハマると、そのうち書く気力も萎えてしまう。
あるいは文章が上達するにつれて、自分の思考の癖に自分自身飽き足らなくなってくることだってある。要するに書けなくなる。
KJ法からのスピンアウト「考える花火」
かけた時間だけ、しっかり元を取る手法としてKJ法は最適解だとは思うのだが、KJ法では思案した発想をまるごと記憶しておく工夫に紙面を費やす傾向がある。ラベル集めに時間をかけることを前提にしていて「一年後にでも思い出せるように云々」とか、それは理想であろうがあまりにも悠長だ。
ブログの更新という問題もある。もっと手っ取り早い手法はないものだろうか。
2018-04-08 KJ法 川喜田二郎 中央公論社 P287
今日の産業社会は、時間と競争しているかのごとき錯覚をおこすほど忙しい。いきおい、仕事に追われる毎日となる。KJ法が職場に拡がっていくと、必ずといってよいほど出てくるKJ法批判がある。「KJ法は、時間がかかる。この忙しいのにKJ法どころではない」というのである。こうした批判が出てくるのは、KJ法の適用の見通しが掴めていないためであるが、確かに、忙しい日常実務の現場に身をおいてみると、同情すべきところもある。そうした同情すべき批判に応えるのが「探検ネット」である。
KJラベルなしでも出来る
この、「探検ネット」(別名、考える花火)というKJ法からスピンアウトした手法は、KJラベルなしの徒手空拳からでも始められるというのが、本式との決定的な違いである。 ラベル30枚の壁 KJ法の素描でも述べたが、通常KJ法では、30枚ほどのKJ ラベルが集まっていることが前提となる。乱読の果てにかき集めたラベルが30枚…いつまでも溜まるのを待っていられない。
水道管を張り巡らせ!
思考命題の設定
この手法の特長はテーマのラベルを模造紙(簡単なテーマならもっと小さくてもよい)の中心に配置し、そこから水道管をめぐらすように、関連した項目や反目する項目を線で結んだり島どりで囲ったりして図式化するというところにある。 思考命題の設定 カードはその場で作成し、どんどん追加していく。こうして思考の流れをつくる工夫をして、即席のラベルには次のような語尾を付け加える。
- 〜を考える。
- 〜を検討する。
- 〜を作成する。
- 〜を設計する。
- 〜の具体策を立案する。
- 〜のリストアップをする。
- 〜の原因を究明する。
- 〜の戦略を練る。
川喜田博士はこれを「思考命題の設定」と言っている。こうすることによって澱み停滞していた思考に流れを与え、「そのネットワークの各所から、水が新しい流路を求めて噴出しやすく」(同書P258)するのである。
アウトラインプロセッサのような階層構造では収まりきらなかった思考が、再び流れ始めたなら、第一段階は成功である。
文章化
あとは出来上がった図を見ながら文章化していく。ここまで来れば図の中の、本題からであろうが枝葉末節からであろうが、どの項目からでも書き始めることが出きることに気づくであろう。書きやすいところから書けば良いのだから、これは大きい。書き出しの魔物からも開放されるのである。
まるでレイヤーを重ねるように
これで一気に完成でも時間がない場合なら良いのだが、文章という乗り物からでないと見えない景色というものがある。書いているうちに新たな流路なり鉱脈なりが見えてくる。ことによると最初のテーマが霞んでしまう場合だってある。躊躇することなく、図式第二版を重ねるのである。そして、それを見ながらまた文章化するのである。
それでも本式のKJ法には勝てません
これだけ実用的な「考える花火」ではあるが、きっちり研修を受けた本式のKJ法には及ばない。博士の文章にははるかに及ばない。なんというか、実用的であるだけに出来上がった文章の胸に迫ってくる迫力が足りないとしか今は言えないのだがしかし、逆に閉じた世界観の「井の中の蛙」に陥ることなく、上には上があるんだよなぁ…というところが実は一番気に入っている。