推敲について
自分の日記を推敲する
そのまま書いても面白く無いので、見つかった自分の中学の時の日記を推敲するとしたらというフィクションで話を始めたい。
自分が中学のころの日記など、(今読んだらツッコミどころ満載で、)どこを直したら良くなるとかいうレベルではなく懐かしさがこみ上げる前に資源ゴミである。考えの甘さ、(リーマンだけは御免だね、とか)文章の拙さ、ウケ狙いでスカスカの上滑った文体、(改行毎にオチがつかないと気が済まぬスカスカの内容)
文才というのは、遅くとも思春期のころには定まるものらしいが、これは詰みだろうと、我ながら思う。
時間に推敲してもらう?
今ならそんな駄文でも、例えば「リーマンだけはごめんだ!」なんてくだりを、ちっとは読ませる内容に書き直すことが出来る。この一行毎にオチがつかないと気が済まぬ荒ぶるテキストを分別盛りの大人がもっと落ち着けといわんばかりに推敲していく。これが時間が解決するという事。だが、推敲とはそういうことではない。
今、この中学のころを日記を推敲するとしたら、考えの甘さを糺すことではない。それでは別の文章だ。黒歴史をなかったことにする隠蔽工作に他ならない。
この駄文に、時空を越えてやってきた中学生の自分に叱られているくらいのインパクトを与えること。中学のころ、その日、そう思ったことの事実を曲げず、どうしたらその考えを人に伝わるように表現をするか、もっと適切な語彙はないかを考えること、これが推敲である。
パソコンで推敲する
ここまでは、一般論である。では具体的に何をすればいいのか、ということになるがパソコンで作業をすることになる。手書き原稿の効能はいかにも魅力的だが、電子化してブログに投稿するところまで考えると気の遠くなるような道のり、個人が趣味でやる範疇ではない。
パソコンで推敲する時の注意点
コピーペーストに堕している、つまり、偶然に頼りすぎてはいけないということだ。例えるなら、フォトショップのエンボスなどの視覚効果で ボタン一発変換したら偶然いい感じの文章が出来上がる、などと言うことを期待してはダメだということ。
その操作に没頭する。耽るといった方が適切か。考えなくてよいのだから脳は楽だし、脳はそういう方向を好むものらしいが、そうなる前にその文章は一度保存して一から書き直せと言う趣旨だったのだが。
パソコンをディスってみる
パソコンでの推敲、あるいは文章を書くことそのものをディスる投稿を昨年から、出しては引っ込めるということを繰り返してきた。そのような立派な趣旨なら引っ込める必要は無いはずだが、そういう行為を繰り返すのは、自分で出来もしないことを人に問うことの気恥ずかしさからだ。投稿して、自分で読んで、恥ずかしくなって引っ込めるということを繰り返している。
自動的に文章が出来上がるという幻想
たぶん、これがあるお陰で執筆活動が続けられる人もいるのではないか?自分だって、その中に入るのではないかと書けない日々に悩むときにふと思うからである。
パソコンでの推敲という名の切り貼り作業はフォトショップの視覚効果のような、思いも寄らぬ偶然の産物をそのままブログに切り取って見せることもあろう。