混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

ダラダラ映画を見続ける事についてダラダラ書く

いったん見ると決めた映画は、つまらなくても見続ける質である。

たまたまテレビでやっていた映画を、何の期待もせず見ているほうが気は楽だ。自分で決めたわけじゃないし何時でも離脱可能だ。

見続けるか、離脱するかは本人の判断であるけれど自分で決めたというプレッシャーのない後者の方がジャッジも公平だろう。自分で選んだとなると、どうしてもバイアスがかかる。

そもそも、なんで見る気になったのか?ファンの女優が出てるからとか、前に読んだ小説が映画化されたからだとかの理由があれば、良し悪しも自分で決めつけて恬然としていられる。

が、予告編で感動したからだとか、ネットの評判が良かったからだとかになると果たしてそれは自分の判断なのか怪しくなってくる。

ネットの評判はよいのにイマイチ、ピンと来ない場合だってある。

「ありきたり」とか簡単にいうけれど伏線が複雑に絡み合い、容易にストーリーの見当がつかなければ面白いと言うわけでもないし、まして「難解」というのとも少し違う。

そうした評論家めいた見方も、作品そのものを遠ざける。脳の悪いクセになってしまっていてなかなか良い読み手にあえて成り下がる事を潔しとしない。

一体、面白いから見る、つまらないから見ないという当たり前のことをやれてるのか?

個人の感性は失われ、作り手側に都合のよい作品が増えたと言われて久しい。あとは、それを次から次へと見続けるという脳のクセが、サブスク疲れという現象となって出現しているのかもしれない。