混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

パソコンで文章を綴るということについて

やっかいなカナ漢字変換

頭の中にあるナニモノかに、はじめて形を与えていく言葉を与えていくという作業において、パソコンで文章を綴るということが(漢字かな変換の介入が)、どれだけ原初のナニモノかを変質させていくかということについて、話をしたい。

無意識でやっていること

原初のナニモノかを、認識可能な言葉で置き換えること自体が可能なのかということは、しばらく置く。
文章を書くと言うのは、ドロドロとしたナニモノかを分割可能な意味ごとに具象化したり抽象化したりシンボル化したり、一般化したり、あるいは比喩、暗喩を用いてみたり、矢もたまらず感情の介入を許したり…(これだけで頭の中はいっぱいいっぱいだ。)なかなか大変なことをやっている。
これらの作業を頭の中で同時に半ば無意識に行うのが文章を書くという行為である。
いま述べたのは紙と鉛筆の話だ。パソコン上ではその上に変換システムにより提示された選択肢のなかから、一つを選び取るという執筆とは異質の思考が入る。

今書いている文章は、本当に頭の中にあったことなのか?

人間は、ふたつのことを同時に考えることは出来ない。思考の中断と再開を繰り返しなら執筆作業は進む。
人間は二つのことを同時に考えることは出来ない。異質の思考が介入している影で何かを犠牲にしているとは、考えられないか?
もしも、頭のなかにあることの知的な翻訳を犠牲にしているとしたら、それは本末転倒ではないのか?
これらのことを考えればスクリーンとキーボードの関係は紙と鉛筆のアナロジーというった単純な関係ではないことがわかるだろう。
今、私の読んでいる私の文章は、本当に私の頭の中にあったことと同じなのか?