混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

何のためにKJラベルを採取しているのか

他人の本をダシにして自分の考えをつくる

今さら、人に対して熱く語れるようなメッセージは無いけれど、(おりて)来たらすぐ書けるようになっていなくてはならないのでしょう。それがネット時代の嗜みというものさ。

KJ法さえマスター出来れば、それは出来る。可能ならしめる為にはイマイチ切実さが足りないのかも知れないが、そのうちテーマというか書かねばならぬ事には出会うべくして出会う。その時は卑近なルサンチマンや、売り言葉に買い言葉だけの脊髄反射にオサラバ するのさ。

未だ言語化に至らざるものを言語化してみむとてするなり

いつまでも決起しないことへの言い訳か、モラトリアムめいたラベル収集でとっておきの言葉を予約する。本への偏愛は醒めたが、ラベルだけは相変わらず在る。そうしておいて、なんであれ時と共に化学反応(人は必ず変わるのだから)を起こせば良いのである。

何だか気になる曖昧模糊としたものをKJ法を使っていずれ言語化するというのがKJ法の理想である。

内容があやういからタイトルで惑わす

何だか理想論ばかり語ってしまっている。私自身この手の礼賛話には食傷気味なのに……

書きたいことがあって書いているのならタイトル発のベクトルも一意で定まるのだろうが、毎日何事かを書かねばならぬから書いただけの文章を、つないでいるだけ。そこからしてあやうい。

このタイトルにしてもそうだけど、落とし所として何を言うつもりなのだ。採取は続けるのかやめるのか?

タイトルと言えばタイトルだけ詐欺の嚆矢は糸井重里なのだろう。「おいしい生活」である。

エキセントリックなタイトルでクリックさせる。その行為は昨今金儲けの別の謂ヒに過ぎない。言葉で誑かすバブルの妖怪にはさぞ見覚えのある風景に映ったことだろう。この跳梁跋扈は誰が悪いとは言わない。誰でも書けてしまう時代をネット黎明期に予言したのもこの人だった。本人は高みにいてこのタイトル詐欺全盛の風景を見たら、なんと言うのであろう。(生きてます)