安部公房の「砂の女」を読んでいたら…
「砂の女」という小説がある。(安部公房著 新潮文庫)そこに、己の文章を何とかしたいと願う者たち(ブログを書く者たち)の神経を逆なでするようなことが書いてある。
前回の寺山修司の場合とは違い、小説の中の描写であるから作者に直接けんかを売るのはお門違いかも知れぬ。しかし、何だか気になったのである。KJ法5原則に乗っ取り、書き残しておかねば。
問題の箇所は、砂丘に囚われてからの中盤に入って唐突に登場する。抜粋してしまうと書評然としてしまう。(それに長い)ここは書評を披歴するブログではないので仄めかすだけにとどめる。
余談だが問題の箇所を開示せずに物語ることが可能かどうかという話は、もう散々やっている。「嫉妬」としか表現のしようのない感情なのだ。オリジナルがこの世に存在しなかったことにならないかという思いを抱えたまま引用など出来ぬ。K国など、いまや国をあげてウリジナルに奔走して本家を葬り去ろうとしているではないか。そのたくましさ、メンタリティーは羨ましくもある。(オリジナルに対する敬意の無さというのはまた別の話)ちなみに書評とは最後に身銭を切るかどうか迷っている人の背中を押すものであり、余計な筆力など必要としていない。たまにアマゾンなどで人を唸らせる書評を読むけれど、それはもう一種の書評文学という別のジャンルである。2次創作とよう区別せん。
さて、これは「この体験(砂丘の虜囚生活)はぜひとも記録しておく価値がある」という主人公のセリフに触発されて始まる長い長い独白である。
編集者のような口ぶりの男が参戦して来て会話のような、意識の混濁のような、なんとも珍妙な会話が続く。「文章を書きたいのじゃなくて作家になりたいのだ」ということを言い出し始める。そして「書くとは女が化粧をするようなもの」とも言った。このへんでバカバカしくなって本を放り出してしまう。
KJラベルに採取するのだ
ここまで拗らせた文章だからこそKJラベル化せねばならぬと気を取り直して作業に入る。しかし長い。非常に長くて1枚のKJラベルに収まり切るボリュームではない。
KJラベルは1枚に一つの意味(志)という大原則があるので機械的に分割して済む話ではない。しかも、文章全体を覆っている要素は一つや二つではない。書くこととは、作家とは、虚栄心とは、教師とは、創作活動とは、等々…それらの要素が混じり合い重なり合いながら、一つのセンテンスを構築しているのである。文章を腑分けすれば良いというものでもない。
そこで下記のような考える花火をやってみた。
- 文章的に二人の会話で成り立っているから、会話ごとに区切って弁証法的な要約を作成する
- 何かの伏線であろうことを期待して、その箇所にぶつかるまで読書を続ける
- この箇所は小説の中に神の視点を持つ作家自身が現れて作品に解説を加え始めたのであり、読者に混乱と興醒めを催させたに過ぎないとして無視する
弁証法の考えは部分としては成立するかも知れないが、そもそもなぜここで唐突にこのような独白が始まったのかということを考えたとき、小説全体では、ここは何かの伏線なのだろうと見当付けた。
しかし、これを回収するエピソードはついに現れない。最後は嬉々として囚われの現状を受け入れているような印象を残してこの小説は終わるのである。
すると、神の視点か?!小説を作家自身が解説してはだめだ。読み手による変幻自在こそが小説の命なのだから。
読書感想文ならばこのあたりで了である。だが、KJラベル化しようとすれば、そのような陳腐な小説論にとどまって思考を停止しているわけにはいかない。ここから何処かにつながっていく思考の流路を生み出さねばならないのである。気になった以上は。
この箇所をKJラベル化するのに、巻末の解説にヒントがあるのかとも思い渉猟してみたが、書くとは何かという重大な問題が秘められた箇所であるにもかかわらず、解説では一言も言及がなかった。
それは、逆に良いことであったかも知れず、ここで当たり障りのない謎解きが与えられてしまえば、この文章に対する興味もなくなってしまったであろう。当然、この文章もない。
興味がなくなってしまう、飽きてしまうというのが、何かを書こうとしたときの最大の敵なのだから。KJラベル化でも同じことが言える。
さて、この「何だか気になる」は、どのように処理すべきが。結論は出なかった。永遠に本にアンダーラインが引かさっているだけで、いつか古本屋行きの憂き目に会い。未来の読者が見つけて舌打ちするんだろうか。