KJラベル コレクションとは独断と偏見の塊
今日はKJ法の話だ。
集めたKJラベル コレクション(あるいはWebブラウザーのお気に入りでも良い)をつらつら眺めている。
いまさらながら、それは独断と偏見の塊である。
調べ物をするにも本を読むにも本来は個別具体的な問題を抱える一個人から出発しており、そしてその問題も絶対に譲れぬ信念から何となく気になるレベルまで様々だ。
こんなものをKJ法でどう調理しようが、良くて独りよがり、悪くすれば精神医の研究対象として重宝されそうな内容になりそうだ。
この、夥しい枚数のKJラベルを繰ってB型叙述化をするのは自室のPCのブックマークを公衆の面前に晒すのと同じことなのだ。少なくともひとりでやってる限りはね。
まあ、ダメならまた集め直すだけである。このままカタルシスしか無いのかも…全く賽の河原の童なのか獄卒なのか判りゃしない。
出来上がった作品がパラノイアに陥る事を防ぐには、自分の意に染まぬ本も読むということになる。バランスを取るのだ。
意に染まないというのは、自分のポジションからは受け入れ難い話のことだ。例えば世代論なら年齢に偏るのが当たり前で「爺は氏ね」から「ガキは弁えろ」までのどこかに自分の居場所がありそれ以外の場所は頗る居心地が悪い。
しかし、自分の置かれている立場や地位の、どちらかといえばネガティブな部分を、なんの根拠もなく、といえば言い過ぎだが まあ適当な言い訳や尤もらしい たぶらかしの言葉で糊塗する(ためのKJ法の利用)または主語の大きな言葉、例えば「日本人」とかで一刀両断にしてもらうことに、快感を覚えること無く、このような(言ってしまおう)めんどくさい作業には関わりたくない。
まあ、それじゃあ公平じゃないし声がデカイだけの言論であるのは百も承知。ひとりKJ法の克服すべき問題である。