混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

KJ法読書生活近況

久しぶりの投稿
前の投稿から半年以上もブランクが出来てしまった。少々罪悪感も感じつつ、またあまりに書かない日々が続くと、ついに書けなくなってしまうという何の根拠もないがブログ界隈では有力な説に、尻を叩いてもらうこととする。

KJラベルを放置
私はといえば時々はKJラベルとにらめっこするだけで何もアウトプットしない日々だ。まるでコックリさんか何かのようにラベルとラベルが交信し「混沌をして語らしめる」のを待っているかのようだ。
増殖するKJラベル
しかもそのラベルの数は日々増えている。手当たり次第に読書しては、気に入った箇所を採取しているのだから混沌に混沌を重ねまくっているというわけである。過去に一度、このKJラベルを廃棄したことがあるが、同じ事情によるものと思われる。「混沌」から逃げ出したのである。
KJラベル廃棄
これについてはずいぶん後になってからこんなことを回想している。「その昔持っていた(KJラベルを収納する)情報ボックスは、今日(2019-10-02)購入したものよりかなり貧弱で数年も経たずにひしゃげて自立も出来ずバタバタ倒れてはラベルをブチまけるという有様(中略)業を煮やして中身ごとゴミとなった。」 なにも中身まで捨てることはないと思うのだが当時の余裕のなさと(おそらく引越のドタバタ)入れ物の見すぼらしさが中身にまで伝播したと考えられる。本人が無価値と思い込み(いつかKJ法を駆使して何事かを成そうと思う者は、その作成者しかいないのだから)ゴミ箱に捨ててしまえば混沌の小宇宙もヘチマもない訳である。
歴史は繰り返す
そして歴史は繰り返すのかもしれない。分かっていながらこの営為。本を読むだけではやはりダメで、いつか本で得た知識が血肉化して自分発のオリジナルな物語を作っていくという虚構が必要なのだ。
捨ててはいけない
読んだ本にはアンダーラインを引いて付箋を貼り、後日採取して(最近やってない)KJラベル化する。いずれとんでもない量になりそうだ。以前、一度採取作成したKJラベルはよほどの理由がない限り除外しないのがKJ法の流儀であると書いた。
捨ててもいい
しかし、久しぶりにKJ法を読んでみると同じようなことが書いてあるラベルは一つだけ残して破棄してよいという件を見つけた。同じ人間が好みの本の気に入った箇所に線を引くのだから、何年も経つと似通ったラベルが量産されるのはしょうがないと思っていたところだ。
少し難易度高すぎ〜
KJ法の総論の部では、なんだか気になることはどんなことでも取っておくとか、本質は細部に宿るものとか、差異に注目して探求されねばならないとかが書いてあり学究の方ならともかく一般人には難易度が高いなと思っていた。すこし肩の荷が下りる思いだ。