混沌をして語らしめる

読書記録とKJ法

KJラベルのおきて(最終回)

書斎なんて大げさですか?

考える花火で作成したカードは、KJラベルまで昇華できなければ おのれの環境次第で淘汰される。というのが前回までの話。

ひらめきなどの降りてくる系も、それがKJラベルになるための志を帯びているかと問われれば、きわめて怪しい。

どのみち そんなに量産出来そうにないのなら書斎が必要だとかは大げさではないか?

本からせっせとKJラベル作って何が悪い!

しかし、そこに本からの引用というものが加わったらどうだろう。それでも書斎クラスの保管環境は必要ないか?

本からの引用はKJラベルになりやすい。というか、私は最初からラベル化するつもりでアンダーラインを引いている。

作業が追いつかなくてラベルにするのを待っている本の山が部屋に溜まってくるのは、焦りとコレクター冥利がない交ぜになった独特の感情を醸し出す。まるで宿直やってない夏休み最後の日みたいな感傷が そこにある。

他人のふんどしで相撲を取っていると言われればそれまでだが、全ての生物は外部との関わりの総体である。一人で大きくなった訳ではない。いわゆる生きた体験と本から得た知識、これらをよく区別しない。

本というのは言うまでもなくプロの完成品だ。枝葉末節にいたるまで持論に引き込む工夫とトリガー満載の商品である。喫緊の自分の課題と合致するならば これにコロッと騙されてみよう。

そこまでして読むと決めた本に、ラベル化の労力を厭わぬ箇所が出てきたら、寝食を惜しんででも採取するしかない。(してないけれど)

繰り返すが、その本の二番煎じを書くために集めているのではない。(書評然としている投稿もあるけれどね。減らそうとは努めている)

乱読の果てに採取したKJラベル群を眺めていると、いったいこれが意味を持った一つの塊に昇華するのだろうかと不安に思いつつもワクワクするのである。